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2012年05月18日

前の嫁と死別して13年、このあと式挙げるんだ。

728 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2012/05/06(日) 18:00:29.87 ID: Be:
ちょっと語っていいかな。
オレさ、このあと式挙げるんだ。

前の嫁と死別して13年。
5日間の出張から帰ったら、部屋で死んでたよ。
妊娠してたんだけど、検診行ったら「育ってない」って言われたらしく、それを苦にしたみたいだ。

嫁さ、実家で「いらない子」扱いされてて。
親父がクソで「学校で一番とれないのは自分の子じゃない」なんて言ってて、がんばっても一番になれなかった嫁は中学のときから病んでた。

でもオレと知り合って、だいぶよくなったみたいでさ。
それでも「マトモに育てられてきてないから、親になる自信がない」って言ってて、4年経ってやっとその気になって妊娠したんだ。


出張から帰ってきて、嫁を見つけて、そっから先の記憶がない。
気づいたら、嫁に関わるほとんどはクソ親父に持っていかれたみたいで、家には嫁のもの、何もなくなってた。
位牌と遺骨だけは死守したみたいなんだけど、クソ親父とのやり取りも覚えてないんだ。

クソ親父、自分が一番だったから、自分の家族は一番なのが当然、娘の相手も一番が当然だったみたい。
だからオレのコトも、大嫌いだったんだよな。


嫁の写真とか、全部持っていかれるじゃん。
記憶の中で会えるからいいや、とか強がってたんだけどさ、忘れていくんだよな。
あんなに大好きで、いつも合わせてた顔なのにさ。
3年、4年経つと、思い出すのに時間がかかってきて、8年くらい経ったらもう完全に思い出せなくなってた。


729 728 [sage] 2012/05/06(日) 18:01:30.59 ID: Be:
続き。

嫁のことは今でも大好きだ。
でもやっぱり時間が経つと、恋愛っぽい相手も出てくるんだ。
そういう相手にはさ、嫁のこと言わなきゃいけないじゃん。
そうすると決まって、「奥さんの代わりにはなれないよ」って言われちゃうんだよ。

代わりを探してたつもりはなかったけど、そう見えちゃうのかなって。
そのたびに恋愛諦めようとしたんだけどさ。
で、今の彼女よ。

今の彼女だけはさ、嫁のこと話したら、「でもそういう経験があるから、今の728がいるんだし」って言ってくれて。
家に来て、嫁の位牌にも手を合わせてくれて。

そしたら、その、彼女が家に来た日よ。
彼女が帰って、風呂に入ってたら、突然嫁が降りてきたわ。
顔なんて忘れてたのに、おもしろいもんだよな。
満面の笑み浮かべて、頬っぺた撫でられた気がした。
風呂で声あげて泣いちゃったよ。

次の日、彼女に、正式に交際申し込んだ。
その後、嫁のクソ親父が死んで、嫁のいろいろが母親からオレに戻された。
気持ちの整理がついたから、改めて彼女に結婚申し込んだよ。


彼女(もうすぐ嫁になる)は、「奥さんは728の中で生きてるから、大事にしてあげてほしい。でも私は私で大事にしてほしい」と言ってくれてる。
毎日嫁の仏壇をキレイに掃除してくれて、手を合わせてくれてる。
二人の嫁を大事に、これからの人生精進していきたい。


オレ、幸せになるよ。
最初の嫁にしてやれなかったこと、二人目の嫁にしてやりたい。


長くなって申し訳なかった。
このスレ、ROMだけだったけど、ずいぶん励まされたんだ。
このスレのみんなに、幸多からんことを、心から願っている。
ちょっと先に、前へ進ませてもらうわ。

じゃ、準備に行ってくる。


2012年05月18日01:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 前の嫁と死別して13年、このあと式挙げるんだ。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月08日

俺にはものごころついた頃には母親はいなかった

382 :2006/04/05(水) 18:06:04
俺にはものごころついた頃には母親はいなかった
父親はいるにはいたが事あるごとに俺を虐待した
背中をアイロンで焼かれたこともあったし
飯も食わせて貰えない事もあった
そしてガキだった俺を何度も殴った
俺はそんな父親が恐くて堪らなかった
だから毎日泣いていた
痛くて辛くて寂しくて・・・
だが助けてくれる人は誰もいなかった
そして月日は流れ小学校に入学した・・・

小学校に入って当初はやっと父親と離れられると安心していた
だがそこに在ったのは平穏ではなかった
保育園などに入っていなかった俺は
人間関係を知らなかった為に早速イジメられた
それはどんどん俺の精神を蝕んでいった
内容は皆さんのご想像通りのものでかなりきつかった
だがどうにかめげずに頑張って通った
そして10才になった時に俺は施設に入れられた
(虐待がばれたりと色々あったのだ)
世の中の普通というのが難しかった俺にとってそこは天国だった

中学、高校とイジメられる事はなかった
だがその間に友達は出来なくていつも一人だった
高校を卒業した俺は近くの工場で働き始めた
つまらない日々を送っていた だがそれでいいと思っていた
ある日、俺は風邪をひいて病院に行った 待っていると女が話し掛けてきた
俺は少し緊張したがどうにか普通に話せていた
名前は千夏というらしい 俺達は何故か身の上話をしていた
千夏の境遇は俺程ではないがきついものだった
意気投合した俺達は辛い時はまた会って話そうと決めた
そうして連絡先を交換した

千夏とは毎日のように会っていつしか恋人になっていた
そして俺達は結婚した
俺達はその報告にお互いの親に会った
俺は嫌だったが千夏はそれは逃げてるだけだといいしつこく説得してきた
折れた俺は15年ぶりに父親に会いに行った
父親は変わり果てていた そこにいたのは覇気のないただの老人だった
父親は俺達の結婚の報告を聞くと二、三度頷いておめでとうと言った
俺はこの時、この言葉を聞いて衝撃を受けた
てっきり追い返されると思っていたからだ
俺は泣きそうなのを堪えて千夏と実家を出た
数日後、千夏が妊娠しているのを知った

千夏は生れつき体が弱いらしかった
そのため出産は困難であろうと医者に言われた
俺はそれをきくまで浮かれていた為にかなりのショックを受けた
そして次の医者の言葉に卒倒しそうになった
死ぬ可能性も充分にあります
俺は悩んだ かなり悩んでいた
だが千夏はこう言った 絶対に負けない、と
今まで辛かったからこれからもっと幸せになるんだ、と
これを聞いていくら俺が反対したとしても聞かないだろうと悟った
そんな状況だったが俺達は確かに幸せであったし充実していた
そうしてお互いに励まし会いながら最高の時は過ぎていった

千夏の体調は日に日に悪くなっていった
その日俺は仕事を休むと言ったがそう言うと千夏は怒った
その日仕事から帰り千夏と話していると突然千夏が苦しみだした
苦しみかたが尋常じゃないためにすぐに悟った
そうして出産の時は訪れた
俺は傍について手を握りながら必死に声を掛けた
だけど俺は何となく理解した 千夏の手から力が・・・・・ぬけていった・・・・・
子どもは生まれた
だが俺の最愛の人は望んだ幸福を得られぬまま
俺を置いていってしまった
俺は生まれた子に美幸と名付けた
この子に幸福がおとずれるように

美幸には障害があった
耳が聞こえないらしい そして千夏と同じように身体がかなり弱かった
俺はこの子の未来を憂いて泣いた
俺は酒を呑んだ 何かに逃げずにはいられなかった 
そんなおり、俺の父親が訪ねてきた
そして、俺に頭を下げてきた 俺は父親を殴った
しかし父親は殴られるだけで抵抗しなかった
俺が睨んでいると 父親は言った 一つだけ話させてくれと
父親は語った―お前の母親はお前を産んで死んだ―と
今のお前はあの時の自分にそっくりだ、と
絶対に俺のようにはなるな、と
そうして父親は帰っていった 俺は泣いていた

俺は今、この子を育てれている 癪だか父親のおかげだ
あのままでは美幸に当たっていたかもしれない
かつての俺の父親のように・・・
1番怨んだ男だがあの時の俺にとって1番大事な事を教えてくれた

生きていく事は辛いことだ
だけど俺は道を踏み外してはいないはずだ
確かに負け組かもしれない 弱い人間かも知れない
だけど、俺は確かに今ここで生きているんだ
だから生きられる限り幸せを求めて生きていこう
そうしていつか天国であいつに笑ってこう言うんだ
お前の分まで幸せに生きてきたぜ、て


2011年01月08日01:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 俺にはものごころついた頃には母親はいなかった | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月01日

死んでる暇無いで

【集え】妻に「愛してる」と言ってみるスレ29【勇者】より

642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/20(金) 20:28:44
俺の病気が発覚したのが丁度1ヶ月前。
ステージV後期の大腸癌っていう診断だった。
リンパも腫れていて転移も十分考えられる。結構ヤバイ状況だと。

嫁に「すまんっ!もしかしたら手術間に合わんかも知れない」と言ったら、
俺の嫁、凄い奴。
「○○さん(娘)と、今まで忙しかったから、あんたはあまり遊んでないやろ?
それやったら手術まで、私も仕事を全部休むわ。思い出作りじゃー!(笑)」って。

それこそ色んな所へ行った。遊んだ。
俺の体調が悪い時には、「休んでたらいいよ」って、ずっとハンドルを握ってくれた。
ディズニーランドへも行った。慣れないカメラを握り締めて、
汗だくになって、必死に俺と娘のドナルドのスリーショットを撮ってくれた。
2週間丸々、嫁ともうすぐ2歳にる娘と共に家族で目一杯過ごした。
本当に楽しい毎日だった。
8月になって、手術の為に入院生活に入った。
そして昨日、2週間あまりの入院を終えて退院した。
大腸や周辺リンパをけっこうゴッソリ取ったにしては
医者もびっくりの回復で、当面は大丈夫そう。

病院に迎えに来てくれた嫁に、今しかないと、
準備してたセリフをきり出そうとした矢先に嫁が、
「私もちょっと病院行きたいねん」と言った。
出鼻を挫かれた俺は、そのままヨタヨタ歩いて嫁の運転する車に乗り込んだ。
車が着いた先は産婦人科の駐車場。
「死んでる暇無いで」って、
助手席の俺を横目で見ながら悪戯っぽく笑った。

あっけに取られて、昨日は結局言いそびれてしまいましたわ。
今晩、もう一回チャレンジします。


2010年09月01日15:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 死んでる暇無いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月29日

披露宴で流れた、新婦の父親のビデオ

46 名前:水先案名無い人[] 投稿日:2010/08/28(土) 10:57:59 ID:XVfIbXUm0
今年の6月に男友達の披露宴に招待されて行ってきた。
話に聞いていたけど 新婦の父親は若くして癌で亡くなっていて
新婦のお母さんのからの希望で 父親の為に披露宴はあげて下さいって
頼まれていたみたい。無論 俺の友達はちゃんとやる気ではあったみたい
だけど。んで 披露宴のクライマックス?ってのか 両親への花束 贈呈の
時に急にビデオが流れたんだよね。亡くなった父親が亡くなる前に
「娘の結婚式に流してくれないか」って録画したものだった。
ここからは記憶をたどって 新婦の父親の言葉を言います。
多少 違うと思うけど感動したとこは覚えてる・・・ってか 後にもう2回
ほどみしてもらったが(笑・・・んで2回泣かされたw
「まゆみ 結婚おめでとう。きっと綺麗な花嫁衣裳が似合ってるんだろうね。
見てあげられなくてごめんな。来て下さり娘を祝福してくれている皆さん
本当にありがとうございます。新郎さんのご両親さま 娘を宜しくお願い
します。きっと みなさんのおかげで 娘は今幸せな時を迎えられていると思います。本当にありがとうがざいます。きっと
良き友達 上司 先輩方々に囲まれてとても賑やかな式になっているところ
をこんな形での挨拶になってしまい申し訳ないと思っていますが
一つだけ一つだけ新郎にお願いがあります。まゆみと生涯を共に考えて
くれた新郎さん。これから浮気やお酒などで夫婦喧嘩する事もあると
思います。ただお互いを労(いた)わる気持ちを忘れなければほとんどの障害は
乗り越える事が出来ると思う。私のお願いはひとつ。娘より1日でいいから
永く生きてください。私が私の妻に背負わせた悲しみを娘にまで経験させたく
ない。娘が笑顔で息をひきとれるように 頼む!本当に1日でいいんだよ。
永く生きてあげて下さい!最後にゆりこ(新婦の母)まゆみをここまで
立派に育ててくれてありがとう。私は君と結婚出来てとても幸せだったよ。
まゆみ お母さんを見習って幸せな家庭を作って下さい。」
と新婦のお母さんも初めて観たらしい。看護婦さんに撮ってもらったみたいで
最後の方はビデオの後ろですすり泣く声が入っていたよ。
本当に感動した父の言葉だったなぁ


47 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2010/08/28(土) 13:49:35 ID:AsEb4PnV0
浮気するの前提にしてるのは余計かもw


48 名前:水先案名無い人[] 投稿日:2010/08/28(土) 15:21:16 ID:XVfIbXUm0 [2/2]
>>47 よく考えるとそうだねw
でも リアでビデオ観ると深く考えなかったよ(汗


49 名前:水先案名無い人[] 投稿日:2010/08/28(土) 19:14:13 ID:VIHsQVCF0
>>47浮気なんかこの問題に比べれば些細な事という意味じゃないのか?
日常を平和に過ごして欲しいという、父の願いが見える。


2010年08月29日01:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 披露宴で流れた、新婦の父親のビデオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月24日

入院したときに同室になった老夫婦

96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 17:49:59
高校生の頃、入院したときに同室になった老夫婦。

じいさん(旦那さん)のほうが他県から出張中に脳卒中で倒れ、
俺の地元の大学病院に運び込まれた。
(定年後に農業指導とかをしてたらしい)
意識を回復するまで1ヶ月以上、奥さんは病院近くのビジネスホテルに泊まって
毎日付き添いをしてたらしい。
俺が入院したときにはもう旦那さんの意識は回復していたが、後遺症で軽度のまひと
言語障害と記憶障害(記憶喪失)になってた。
じいさんはいつもふがふが喋っているのだが、先生も看護婦も良く聞き取れないので
奥さんが通訳していた。
が、旦那さんは奥さんのことが誰だかわからないらしく、決して名前を呼ぶことはなかった。

そのくせこのじいさん、若い女の子は大好きだった。
看護婦の研修機関になっているからか、2〜3週間ごとに変わる若い看護婦さんのことは
すぐ覚えて、
「今日は違う人だね。新しい人?かわいいね」とか言ってた(これも奥さんの通訳経由)。

じいさんは性格的には気さくな人で、ふがふが言いながら隣のベッドの俺にも
必死で話しかけようとして、奥さんが通訳し、俺が返答すると、奥さんが耳元で
ゆっくり言いなおす、ということで会話したりしていた。

そうこうしてるうちに、俺が2週間ぐらい入院している間にも、じいさんの言葉は
目に見えて回復していった。

ある日の午後、看護婦さんが誰も部屋にいない時間帯にふとじいさんが奥さんに向かって
「あんたは、新しい人(看護婦さん)かね?ずっと俺のそばにいてくれるようだが…」
と言った。

俺はそれを聞いて「じいさん、2ヶ月近くも付き添いしてもらっててそれは酷いだろw」と思ったが、
奥さんは
「何を言ってるんですかwやーねぇww
 もう40年もお側にいるじゃないですかw」
と言ってニコニコ笑ってた。

奥さんは俺にも「ねえ?ww」と言ってきたが、俺はなぜか涙がこみ上げてきて
うまく答えられなかった。
なんかこんな夫婦になりたいと思った。


2010年08月24日14:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 入院したときに同室になった老夫婦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月29日

デートで拾った猫

499 :わんにゃん@名無しさん:2005/04/07(木) 07:45:39 ID:JmMHUWur
11年前の2月、何も無い湖の駐車場でガリガリの猫が寄ってきた。
よろよろと俺たちの前に来るとペタンと腹をつけて座った。

動物に無関心だった俺は「キタねー猫だな」と思っただけで、他に何とも思わなかった。
猫を飼っていた彼女がその猫を撫でながら言った。
「こんな所にいたら病気で死んじゃうね」
単細胞の若者だった俺は頭にきた。
「何、こいつ病気なのか?死ぬと分かってて放っておくのは殺すのと一緒だろ!
何言ってんだオメー」

ドライブは中止。そのまま膝の上に乗っけて車を運転して帰った。
顔は目ヤニだらけ、鼻水で鼻はガビガビ、尻から出てきた回虫が俺のズボンの上を這っていた。
くしゃみで車のドアはベトベト、コホコホ咳をして、痰でゴロゴロいっていた。
「どうするの、その子?」
「治るまで俺が飼う」
「じゃあ名前は?」
「うーん…痰が詰まってるから…痰助」
「変な名前」
「うるせー」

獣医に寄って虫下しと風邪の薬などを貰って帰った
風呂場で綺麗に洗って、とりあえずシシャモとちくわを食べさせた、腹がカチカチになるまでがっついていた。

ペットは駄目なマンションだし、治って暖かくなったら逃がすつもりだったが、1週間で方針を変えた。
あっという間にまるまると太り、誰が見ても目を細めるような人懐っこい顔になり、夕方になると俺の帰りを玄関に座って待つようになった。

もともと飼い猫だったようで、トイレは最初からできた。車に乗るのが好きな変な猫だった。
人間も同じだろうが、食べ物で苦労したせいか、すごい食いしん坊だった。
冷蔵庫が開く度にダッシュで駆けつけ、何もくれないと分かると、わざと歩くのに邪魔な所に寝そべって俺に抗議した。
かつては歴戦のツワモノだったようで、耳は食いちぎられて欠け、しっぽは折れたまま曲がり、ケガの跡のハゲがあちこちにあった。

500 :わんにゃん@名無しさん:2005/04/07(木) 07:46:54 ID:JmMHUWur
当時は分からなかったが、そうとう歳をとった猫だった
歯が何本も抜けていて、筋肉も細かった、一日中じっとしていた、食べる時以外に走ることはなかった。

ちょうど一年後、俺は痰助の誕生日を勝手に決め、仕事帰りに誕生日プレゼントとして一個千円のカニ缶を買って帰った。
普段は脇目も振らずに食べる痰助が、その日は一口食べるごとに俺の顔をじっと見ていた。
「なんだよ、俺でも食った事ないんだぞ。早く食わないと俺が食っちまうぞ」
いつもどおり缶の底がピカピカに光るまで食べたのだが、無理をして食べているように見えた。

誕生日の二,三日後、食欲が無く朝からぐったりしているので、いつもの獣医に連れて行った。
検査の結果、腎臓がかなり悪い事が分かり、即日入院となった。

先生が抱き上げようとすると、必死に俺の肩に登ろうとした。
先生に抱かれて診察室の奥の部屋に行くとき、ガラスのドア越しに見えなくなるまで俺をじっと見続けていた。

あのときの哀しい眼差しを、俺は生涯忘れる事はないだろう。

雪のちらつく朝、痩せた体に一輪の花を乗せて、痰助は大好きな車で俺と一緒にうちに帰った。
大工の弟に頼んで作った小さな棺に俺の写真と大好物だったちくわを入れて、痰助に出会った湖の桜の木の下に埋めた。
 
今となれば分かる。
湖からの帰り道、あれは痰が詰まっていたのではなく、嬉しかったんだと。

今日も壁に掛かったコロコロのたんすけが行儀良く座って俺を見ている。

お前がいなくなって十年経った今でも寂しいけど、それは俺の勝手だから我慢するよ。

変な名前付けて悪かったな、たんすけ、
でも今うちにいるお前の後輩も変な名前だから、勘弁しろよ。
2006年07月29日15:00 | コメント(25) | トラックバック(2) | 感動 はてなブックマーク - デートで拾った猫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月17日

思い出の缶

221:恋人は名無しさん :2006/07/09(日) 23:45:06
付き合って3年。正確には3年4ヶ月。
この春から彼と同棲してるんだけど
こないだ大掃除したら、彼の宝物いれらしき箱←この時点で可愛い… が見つかった。煎餅とかが入ってたらしい銀のでかい缶だけど。
中からは私の初めての職場の名刺(今は転職した)や、二人のプリクラ、初めて見た映画の半券、旅行の搭乗券…
それから付き合って初めて私が買ってあげたプレゼント。100円ショップのハンカチ。
ポストイットに(初めてもらったやつ)って汚い字で書いてあった。
モノとか大切にしない人だし、服もろくにアイロンかけない雑な男だけに
その綺麗にアイロンかけられてピシッと四つ折りされたハンカチみてたら涙が出た
見なかった事にして、そっと棚に戻しました
本当に可愛い3つ下の彼氏です。
これからはもっと缶に収まり切らないほどの思い出作ろうね


2006年07月17日23:00 | コメント(8) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 思い出の缶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月16日

家族の星

190 : おさかなくわえた名無しさん : 2006/07/14(金) 22:30:22 ID:gQEz9C5W
冬に病院にお見舞いに行った帰り、
駐車場に行く道すがら前を歩いていた母子の会話。
子供は小学校低学年くらいの男の子、母親は30代前半くらい。

子「お母さん、オリオン座って知ってる?」
母「知ってるよ。あそこにある星でしょ?〇〇はよく知ってるね。」(空を指差して)
子「△△ちゃんがおしえてくれた。
 あの星って僕とお母さんとお父さんみたいじゃない?」
母「星が三個並んでるから?」
子「そう。星はいつも三個一緒だからさ〜、僕達も三人で一緒だよね。
 お父さんもまた元気になって三人で暮らせるよね。」
母「…うん」
子「この星を見るたびにさ、これは僕達だって思うんだ。」
母「…」

母親は歩きながら泣いているようだった。
後ろで聞いてる自分もジーンときた。
父親が元気になっていればいいなと思う。


2006年07月16日00:01 | コメント(4) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 家族の星 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月30日

人生相談者に送られた手紙

9 :名無しさん@実況で競馬板アウト:2006/06/26(月) 22:18:21
ある人生相談者にある日手紙が届いた。
中には馬券と手紙が入っていた。
手紙には要約するとこんな事が書いてあった。
【10年前事故で妻、息子、娘を亡くし生きる希望を無くしたが、貴方から「趣味を持ったらどうか?」
とアドバイス貰い、立ち直る事が出来た。】
【競馬に没頭した私は必勝法を見つけました。この馬券はあなたへのささやかな御礼です。】

馬券は週末のレースのもので当たれば大層な金額になるものだった。
彼はレース迄の数日間悶々と過ごした。
「もし当たったらどうしよう?」「誰に渡せば良い?」「それより競馬の必勝法ってなんだ?」

待ちに待った週末のレース
結果は…

外れだった。

翌日「あれは何だったのだろう…?」と考える彼に手紙を持った男が訪れた。
最初の手紙の差出人の知り合いで、聞けば彼は前日癌で亡くなったという。

手紙にはこう書かれていた。
【貴方が教えてくれた競馬のドキドキが、私に生きる希望を夢を与えてくれました。
競馬に必勝法はありません。
しかし、貴方はこの数日ドキドキ出来たのではないでしょうか?

10年間、夢を!希望を!有難う。僅かですがお返しします】


2006年06月30日00:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 人生相談者に送られた手紙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月22日

6月になると思い出すこと

297 :名無し職人 :2006/06/19(月) 14:19:28

6月になるとある小さい頃の体験を思い出してしまうんですよ。
この雨の多い季節、晴れの日は貴重ですよね。やっぱりあの子はもう帰らないんだろうか・・・文才ないから上手く書けませんができるだけがんばってみます。

それは私が中学2年生の頃でした。私はクラスでどちらかというといじめられ体質でいた。とはいっても殴られたりするわけではなくいじられキャラだったり物を隠されたりする程度でしたが。
そのため勿論彼女などいなく告白も一度も経験がありませんでした。
ですがそんな僕にもクラスに一人だけ中のいい女の子がいまいた。(以後K)Kはクラスでも頭がかなりいいほうで顔はまぁ普通でしたのでたいしてモテる方ではなかったんですがやさしい子で影でいつも励ましてくれました。
いつもやさしくしてもらってる内に僕はKの事が好きになってしまいました。僕はKに好きなってもらえるよう努力しました。
今まで気にしたことも無い髪形を変えたり、本で女性の心を掴む方法を探したり。


298 :名無し職人 :2006/06/19(月) 14:21:11
でも結局Kと付き合う事はなかったんですけどね。  。゜(ノ∀')゜。ギャハハ・・・
そんなKにある日異変がありました。体育の授業中突然倒れて意識不明。
そのまま病院に搬送されました。
お見舞いに行こうとも考えましたがチキンな私でしたので二人きりで話なんて無理だと思ってあきらめていました。
でも、一週間入院しても学校にこないKがやはり心配で家にあったリンゴとバナナを持って(とりあえずフルーツが必要と思ったんですorz)病院にいきました。
病室にいた彼女は窓から大雨の外をみていました。
私は「ぇっと・・・ぁぁ大丈夫?」と緊張ながらに聞きました。
K「うん。わざわざ来てくれたんだ。ぁれ?何それリンゴとバナナ?」と言うと小さく笑っていました。


299 :名無し職人 :2006/06/19(月) 14:22:43
私も顔を赤らめながら一緒に笑っていたんですが途中でKの笑いがせきに変わるのを見て不安になりました。
私は「ぁ・・・何か体調悪いみたいだし今日は帰るね・・・じゃぁ」と言って駆け足でその場を去りました。
その日帰ったらもう8時で母親に怒られました。
それからは晴れた日にだけ自転車でいくことにしました。そのときは丁度6月で雨の多い時期だったので晴れる日なんてほとんどなかったので病院にいける日は貴重でした。
それでも病院にいくたびに彼女と学校の話をしたり、ゲームをしたりしていました。

あれはきっと12日のことだったと思いますていたので病院にお見舞いに行きました。
彼女の腕はもう骨と皮しかなく顔も真っ白で見ていて辛かったです。
でも彼女の瞳だけはいつまでも輝いていました。
人形を作っていたみたいで男女の人形がおいてありました。その日もいつものように楽しく話をしている内にすぐ夕暮れになりました。
私が帰ろうと思い病室の扉をあけた瞬間にそっとKがつぶやきました。


301 :名無し職人 :2006/06/19(月) 14:26:43
「明日も・・晴れるといいな・・・」
次の日の天気は曇りのち晴れでした。
私は学校を終えると猛ダッシュで病院に向かいました。そこにはもう彼女はいませんでした。
病室には真っ白なベッドが置かれていて私は最初彼女が退院したんだと思い込んでいましたが、看護婦さんに「Kちゃんね・・・今日の朝に亡くなったの、突然容態が悪化してね・・・」と告げられました。
泣きました。病院のフロアの人に聞こえるほどの声で泣きました。
次の日もなぜか病院にいってしまいました。もう、彼女はいないのに・・・受付で昨日の看護婦さんに彼女の病室に残っていた日記と缶を渡されました。
家に帰ってその日記を開くとこう書いてありました。

「6月12日  今日もSが来てくれた。Sが来てくれると元気がでる。さっき天気予報みたけど曇りのち雨だって。でも、きっと晴れるよね。S  好き だ よ・・」


302 :名無し職人 :2006/06/19(月) 14:30:03
この日記を読んだとき涙がとまりませんだした。
「何で彼女なんだ・・・何で彼女が死ななきゃいけないんだ」と心の底で神様を恨みました。
そして缶の中には二つの男女の人形が入っていました。
底には手紙が貼ってあってその手紙には「これはSが晴れ日に休まず私が退院するまで来てくれた皆勤賞です」と書いてありました。
彼女は退院できると信じていたんです。なのに・・・・・
それからは全てを失った気分になりました。
愛する人を失うってこういうことなんだと実感しました。

現在私は27歳です。
結婚をしています。
相手はとても優しい人です。子供もいます。今5歳です。
昨日は晴れていたので家族でドライブをしました。帰るときに子供がいっていました。

「明日も晴れるといいな」って


2006年06月22日00:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 6月になると思い出すこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月18日

フライパンの話

259 :ぱくぱく名無しさん :2006/06/12(月) 21:35:25
一人暮らしを始めるにあたって、意気込んでフライパンを買った
ブランドとかわからんが、とにかく28cmのやつを1本

それまで、料理なんて全くしなかったんだが
一人暮らしだから自分で作るしかない
そう思って、買った

空焼きしたり、油を馴染ませたり、手入れを怠って真っ赤に錆びさせたり
それを金たわしでゴシゴシやって、また空焼きして油を馴染ませたり
とりあえず、目玉焼きは、上手になった

彼女ができた
すんげーかわいいし素直
だけど、料理はぜんぜんダメだったw

たまの休みの日には俺が、ちょっとだけ贅沢してステーキを焼いた
彼女はミディアム、俺はレアが好きだった
このフライパンは、お前と出会う前から俺と一緒に暮らしていると
言ったら彼女はふくれっ面になって、それから笑った


俺と彼女は幸せな時間を過ごした

料理が下手な彼女は、目玉焼きを何度も焦がした
俺は笑いながら、焦げた目玉焼きを美味しく頂いた
大事なフライパンなのに、ごめんなさいと、彼女は詫びた
大丈夫だよと金タワシでこすって空焼きしたら、彼女は
フライパンの深く碧い色を「きれいね」と言った

彼女は、突然、いなくなった
事故だった

俺は今も、時々、フライパンを金タワシでこすって空焼きする
深く碧い色が蘇る
彼女の「きれいね」という言葉が蘇る

28cmのフライパンは、俺と一緒にいる
焦げた目玉焼きはもう食べられないが
フライパンのおかげで、彼女の「きれいね」は
今でも、いつでも聞けるんだ


2006年06月18日20:00 | コメント(6) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - フライパンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月17日

離れ離れになった私と姉の話

205 :名無し職人 :2006/06/14(水) 15:47:02
また今年もあの季節が来る…灼熱の季節…夏が…
1995年…当時小2だった私に重大な人生の転機が訪れた…両親の離婚だ。
元々夫婦仲が悪かったことは気づいていた、母が一人で泣いている姿も何度か見た。だから仕方のないことかもしれない…子ども心に感じていた。
私は母に、一つ歳の離れた姉は父に引き取られ別々の生活が始まった。家を出た私と母は賃貸アパートの一室に住まう事となった。
父の家から距離にしてやく12Km、母の仕事の都合でこの近辺が便利らしい。だが私は学区外ということで通っていた小学校を転校することになった。
離婚後は何となく気まずい気持ちで姉とは学校の中で会っても知らんふりだった。転校するまで姓が変わらなかったのは意地の悪い父の私に対する最後の良心だったのかもしれない。
お別れ会が終わり、私は母の友人が送り迎えに待っていてくれるファミレスへ向かった。
その途中にあるぞうさん公園(とは言ってもぞうの絵の書いてあるベンチと砂場があるだけの空き地のような場所だが…)で私は足を止めた。
思えばたった9年だが色々な事があった…とても裕福とは言えない家族だったが仲の良かった頃は家族4人でココで花火をしたり、ピクニックに来てレジャーシートの上でおにぎりを食べたりと幸せだった。
そんな事を思い出し、ふいに離婚の大変さを実感した。(もうあんなふうにみんなでココへ来ることはないんだ…)
涙が出そうになった…空を見上げて堪える…太陽が眩しい…きれいな青空だなぁ…
すると「健一!!」…後ろから声がした。振り向くと息を切らした姉が立っていた。


206 :名無し職人 :2006/06/14(水) 16:03:39
「寄り道してたの!?レストランから逆に歩いて探したんだから!!」…二週間ぶりの姉との会話だ。わずか14日でも今はものすごく懐かしい…
「あのさ、あんた達とあたし達はこれから別々に暮らす他人じゃない?」…わかってはいるが冷たい言い方だ…互いに幼かったため強がっているせいだろう、私も「だから?」と言い放った。
「でもさ、ウチって元々貧乏だし、とくにお母さんなんか大して稼げないでしょ?ぎゃくにこっちはあんた達の分まで贅沢できるじゃない?」
今から思えば養育費などの支援もあっただろうからそうでもないんだが…
「だからなんだよ…もう行くよ?おばさんが待ってるから」
「待って、だからさ…あんたの誕生日くらい毎年お父さんに言って何かプレゼント用意させるよ」
…意外な言葉だった。だが私は嬉しかった…プレゼントを貰える事じゃない…どんなきっかけでもいいから姉と会う約束ができた事がだ…
「マジ?じゃあ仕方ないからもらってあげる」と生意気な返事をした私に姉は
「じゃあ今年の8月8日から毎年この公園のあのベンチで待っててね、時間は12時」
私と姉はそんな約束を交わし別れた。

月日は流れ新しい学校にも馴染み、最初の誕生日を迎えた。


207 :名無し職人 :2006/06/14(水) 16:23:36
私はソワソワしながら母にプールに行くからと嘘を付き500円を貰い、電車に乗って約束のぞうさん公園に向かった。
約束のベンチには姉が座っていた。白い服を着た半年ぶりにみる姉はどことなく大人びて(それでも10歳だが)スラッとした印象を受けた。
「お姉ちゃん!!」と呼びかけたかったが、向こうはどう思っているのか怖くて再会の一声は「ねぇ!来たよ!」なんてものだった。
「健一!久しぶり!お誕生日おめでとう!」私は自分が恥ずかしかった…以前「他人」とまで言った姉だが、昔と全く変わらぬ愛情を私に向けてくれていた…それが私ときたら変に体裁を気にして…
「ハイ、コレ今家のクラスの男子の中で流行ってるから健一も好きになるかもよ」と包装された包みをくれた。
私はベンチに腰掛け包装を開いてみる「おぉ…お…」中身は当時大流行したミニ四駆。しかも入手がなかなか難しかったビクトリーマグナムだ。
私のクラスでも大流行だったがお金のかかるこのおもちゃは経済的に苦しい母に買ってもらえるはずもないとねだりはしなかった。
姉はそんな私の気持ちを知るかのようにミニ四駆をくれたのだ。
それから私たちは真夏の暑い中木陰で色々と話をした…親のこと、学校のこと…最近の出来事…
やがて夕焼け空になり、姉は「暗くなる前に帰ろうか」と私を駅まで送り「また来年ね」と別れた。
思えばわざわざ一年待たなければならないほど遠くでもないのだが互いに何故か遠慮していたのかも知れない。私も自分の住所は教えるきっかけをつかめず、話せなかった。


208 :名無し職人 :2006/06/14(水) 16:45:39
その年の冬、母が再婚した。相手は会社の同僚で人の良さそうな男性だ。彼はバツイチで前妻とは死に別れ、連れ子に12歳になる美和という女の子がいた。姉と同い年だ。
当初は戸惑った私だが、いつしか心を開いていた。姓も変わり、生活も以前よりずっと裕福になったと思う。
住居も一戸建てになり、当時最新ゲームだったプレイステーションすら持っていた。新しい姉美和とも仲良く、生活に何の不満もなかった。
そして誕生日を迎えた。私は今年も去年と変わらぬ時間に変わらぬ気持ちでぞうさん公園へ向かった。変わった事と言えば今回は電車賃を自分の小遣いで賄ったことくらいだろう。
ぞうさん公園に着くと、ベンチに姉が座っていた。今年も白の服だ。一年ぶりの再会だが去年ほどの感情の高まりは感じなかった。美和と毎日会話しているからだろうか?
今年は「お姉ちゃん!!」とためらいなく呼べた。姉も今年の誕生日を迎えたら12歳、来年は中学生だ。この頃の女子は発育が早いと言うが姉もそうなのだろう。白の服が小さく見えた、美和もそうだが年頃なのだろう、ダイエットをしているのか去年よりほっそりしている。
「健一!お誕生日おめでとう!」そういうと姉は去年より小さな包みを渡した。中身はスーパービーダマンのパワーウイング付きの白だ。
私はコレを持っていた、再婚したため生活が豊かになり、比較的好きなものは何でも買って貰えた部類だからだ。
「あっ…コレ…」と思わず口にしてしまった私に姉は「もしかして…気に入らなかった?」と聞いてきた
「うぅん!!ありがとう!!」私は悟られまいと必死の笑顔で対応した。「良かった…」と姉もホッとした様子。


212 :名無し職人 :2006/06/14(水) 17:07:07
それから私たちはまた色々と話をした。学校のこと、親のこと、…再婚したこと…
「そっか…お母さん再婚したんだ…良かったね…そっか…」…姉は寂しそうな笑顔を浮かべた。
「お姉ちゃんは何でお父さんに付いていったの?お父さんの事嫌ってたじゃん」「お母さんに付いてきてたら再婚したし何でも買ってもらえるんだよ?今からでもきなよ」
などという私の無神経で考えなしの問いに姉は「学校変わりたくなかったんだもん」とだけ答えた。
そして去年と同じ様に駅まで歩き、別れた。

次の年、私は六年生、姉は中学生になって8月を迎えた。
公園に向かうと姉は去年と同じ様に座っていた。また白い服だ。「健一!お誕生日おめでとう!」プレゼントはやけに大きい。中身はPS2だった。
「え!?姉ちゃんコレめちゃくちゃ高いじゃん!!」姉は「父さんも給料増えたからね」と微笑んだ。
私は嬉しかった。プレゼントもそうだが父の収入が増えて姉も色々楽になったろうと思ったからだ。
しかしふと気が付く……「姉ちゃんダイエットはいいけど痩せすぎじゃない?」細いのだ…もはやガリガリの部類に入るくらいに。そして衣服、明らかにサイズが小さい上によく見るとほつれや、修繕が目立つ。靴などとても中学生の女の子のものではないくらいボロボロだ。
姉は「コレは汚れてもいい服装なの、学校ではきれいな格好だよ」と話した。
それからいつものように色々話し、別れた。ただ、別れ際はいつも「また来年」と言う姉が「元気でね」とだけ言ったのが気になった


218 :名無し職人 :2006/06/14(水) 17:27:31
翌年、私も中学生になった。そして8月。公園へ向かった。今年は先に私が着いた、ベンチに座って待つことにする。
遅い…もう15時だ…約束の時間はとっくに過ぎている…私の誕生日を忘れたのだろうか…?イヤ、それはない…なら何故…「コツン」何かがかかとに当たった
…何だ?クッキーの空き缶だ、中に何か入ってるぞ。私は空き缶を膝に乗せ開けてみる。
中には古いおもちゃやガン消し、伸びる手やスライムやおはじきなどが入っていた。
「うわ〜懐かしい…俺もってたわコレ…」と近所の子どもの隠したつもりの宝物だろうとおもいしまおうとしたら蓋に封筒が張り付いていた「健一へ」…姉ちゃんから!?慌てて読んでみる
(健一へ、ごめんね、もう健一にプレゼントをあげることはできないみたい…実はお父さんの収入は昔より悪くなったの、仕事やめて毎日パチンコで遊んでて…あんまり貧乏くさい事いうと健一やお母さんに心配かけるから言えなかった…)
姉ちゃん…違う
(お母さん再婚して健一には新しいお姉ちゃんができたでしょ?実を言うと悔しかった。健一が私の知らない人をお姉ちゃんって呼んでるって考えると…でも私は健一がどう思っていても健一を大切な弟だと思ってる)
…違うんだよ姉ちゃん…
(だから健一を思う気持ちは負けないって証明したくて高いプレゼントを買ったんだ)
…違うんだよ姉ちゃん!!…俺は…
(新しいお姉ちゃんにはできなくて私にできることを考えたら高価なプレゼントしか思い浮かばなかったの…だめな姉だよね…)
…姉ちゃん違うんだ…プレゼントなんかじゃないんだ…


222 :名無し職人 :2006/06/14(水) 17:46:22
…俺は…プレゼントなんかが欲しくて毎年ココに来たわけじゃない………姉ちゃん……姉ちゃんだよ………姉ちゃんに会いたかったからなんだよ!……
手紙の最後には(こんなプレゼントでごめんね、でも健一との思い出がつまった私にとっての宝物だから。追伸、下手くそだけどプロミスリングを編んでみました。良かったら着けてみてね。 )と綴られていた。
……………………………………………………………………
私はクッキーの蓋を閉め、姉の住む父の家へ向かった。何年かぶりだが道はしっかり覚えている。迷いなく団地の一室の前へ着いた。呼び鈴を鳴らす。………もう一度……………「姉ちゃん!!いるんだろ!?開けてよ!!健一だよ!!」……………「姉ちゃん!!姉ちゃん!!」
…………しばしの沈黙の後向かいの住人が顔を出す。「あっ、以前ココに住んでた高岡の息子の健一です、あの、姉と父は外出してますか?」
「あぁ!!健ちゃん!?大きくなってるから分からなかったよ!!」
そんな社交辞令はいらない、「姉は…」
「知らないのかい?お父さんたちは今年の2月頃引っ越してるよ」
……えっ!!………
「可哀想にね…お父さん仕事してなかったから亜美ちゃんはいつもボロボロのカッコだったよ…ご飯も毎日500円だけ渡されてそれで食べてるって…なるべくウチでもご飯食べさせてたんだけど遠慮がちなあの子でしょ…」


224 :名無し職人 :2006/06/14(水) 18:08:49
「私も見るに見かねてね、お母さんのとこに行った方がいいんじゃないかって言ったんだ、そしたらね」
(最初は…私たちがそれぞれの親と過ごすことで家族全員仲直りのきっかでもできるんじゃないかなって思って……)
(でもお母さん再婚したし…もうお父さんに付いていけないって思ったんだけど…なんだが可哀想で…お父さん後悔してたし)
「…って言うのよ、それからしばらくしてだね、お父さんが遠くで仕事見つけたから引っ越すって…」
「行き先は!?」…訪ねても無駄だった…知らないらしい…
私は呆然としながらアパートの階段を降りていた。思えばビーダマンの時の私の表情に姉は気づいていた…だからPS2なんて無理して…
1日500円か…そりゃ痩せるよね……!!…じゃあPS2はどうやって買ったんだ!?保証書やレシートも入ってたし確かに購入した形跡があった
……まさか…食費を少しずつ貯金してた!?……………………
ソレを確かめる術はない…ただ確実なことは姉が誰よりも家族を愛していたという事実…

階段を降りきった私はクッキーの空き缶から手作りのプロミスリングを取り出し腕に巻いた…
振り返ると懐かしい我が家がそびえ立っている「姉ちゃん…リング使わせてもらうよ…願いもかけた…」
今日も暑い…天には雲一つなく灼熱の太陽と、ただ果てしなく広がる青空があった。
私の頬を滴が伝う…ソレが涙か汗かは分からない……
「このリングが切れたら…また会えるよね……姉ちゃん……」


2006年06月17日15:00 | コメント(12) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 離れ離れになった私と姉の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

嫁の墓参り

451 :水先案名無い人:2006/06/10(土) 23:35:55
この前、
息子と嫁の墓参りに行ったんですよ、初めてね。
まぁこの前って言ったって、去年の暮れの話なんですけどね。
正直最初は息子と墓参りなんて簡単だと思ってたのよ。
みんな普通に車で行くからさ。
あのさ、俺が間違ってた。あれは暮れに行くもんじゃない、夏だね。夏に行くもんだ。
最初歌番組聞いてたら、リクエストでこの時期定番の「ロード」なんか流れやんの。
そんでめちゃめちゃびびって、そろ〜って息子見てそろ〜ってチャンネル変えようとしたんだ。
10秒くらいかけてさ。で、なんか怖くなってラジオ自体消そうとしたのさ。
そしたら息子が「なんで?」って顔で俺を見るんだ。
同じ過ちを二度繰り返さないのが俺よ。
だからそのままロード聞いたのさ。えぇ、そりゃもう聞きましたとも。すべてを忘れて聞いたよ。
嫁さんがこの歌が大好きだった事とか、丁度歌が今の俺にマッチする事とか、息子が泣いてしまうんじゃないかとか
色々忘れてね。
そしたらエライ事になった。
もうすごい息子のマシンガントーク、スイッチ入って息する暇なし、プールならひと息で50メートル。
なんだと思ったら、どうやら俺の為に歌が聞こえないようにしてんのさ。


それで横見たら息子がもう歌終わったのに、必死で喋ってんの。
ホントごめんなさい。
正直「父さんと二人で行こうか」なんて見栄張らないで、素直にお袋に預けて一人で来りゃよかったとおもったよ。
心の底から息子に気を遣わせてしまった事を後悔したね。
でもサービスエリアに着いて
「父さんはロード聞きたかったのによ、これだから幼稚園児は…次は邪魔すんなよ。」
なんて言っちゃってんの。
ホント俺ってダメ人間。
自分も泣きたくなったろうに、俺の心配してくれてありがとうな。
父さんまだまだ涙なしには聞けそうにないや。
また邪魔してください。


2006年06月17日01:00 | コメント(5) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 嫁の墓参り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月13日

小学生の頃の母の思い出

690 :( ´∀`)ノ7777さん :2006/06/06(火) 21:28:14
当時〔小学一、二年〕俺の家族はあまり裕福な方ではなかった。
んな事も知らずに、バカな俺は玩具やゲームをねだる毎日だった。
友達の間では持ってるのが当たり前なゲームボーイなどは勿論なく、悔しかったのを微かに覚えている。
俺はその悔しさを母に出していた。〔父が怖いため〕玩具売り場でダダごねなんてのも何回もあったと思う。

そんな俺に誕生日だったかな?クリスマスだったかも、に日曜日の朝にやってた、
5レンジャー系の人形を買って貰った。全キャラクターがそろってて結構高そうなやつだった。

嬉しくて遊んでいた俺に母の口癖は「片づけなきゃ捨てますよ」だった。俺はこれが脅しだと分かっていた。
事実捨てたと言って押入に隠し一週間くらいしたら出すと分かっていた。


しかし買って貰ったヒーローの人形が無い!!無い!!母に聞くと「捨てた」と。
俺は暴れた。鳴いた。叫んだ。皿を投げ割った。そうしながらも俺は「これだけしたら、返すだろ」思ってた(小学生で
しかし何故か人形は戻って来なく、数週間もしない内にんなことは忘れていた。


そして俺が小三の時母が死んだ。交通事故だったらしい。
小さい俺は悲しみからもすぐ立ち直れた。母の事なんてもう殆ど忘れていた時だった。

そして高校を卒業して上京するため荷物整理してた時にボロ段ボールが
あったので開けてみると、押収された人形と紙切れが数枚。

読んで見ると、学校の授業で母の日とかに書く感謝の手紙だった。
下手な女の人の絵の下に黒のクレヨンででっかく書き殴っていた「お母さんおいしいごはんまいにちありがとう」と
誰も小二で本気でこんな事思ってない。学校が勝手にさせてる事。ありきたりな文
しかし何十年も前に渡した物を大切に残してる。母はもう居ないのにと思うと急に胸が熱くなり、
硬化したソフトビニールの人形を握りしめ、泣きました。

その頃には貫録があった父も何となく小さく見え、こんなの残してるのかと思うとそれも泣けてきました。

そして上京してから今でも仕送りをしてます。


2006年06月13日02:00 | コメント(3) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 小学生の頃の母の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月09日

父にキャッチボールしようって言われた時

42 :名無しさん@恐縮です :2006/06/05(月) 17:58:54
俺、自分が中学生の時にオヤジが「おい、キャッチボールしないか?」って言ってきたが
面倒くさいと断った。

んで高校生になったらオヤジが「なあ、キャッチボールしてくれないか?」っと言ってきた。
面倒くさいと断った。

今大学生になって、野球好きになってきたから
キャッチボールしたいなあと思ったらオヤジはもういない。
キャッチボールやってあげればよかったな(´・ω・`)
2006年06月09日01:28 | コメント(7) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 父にキャッチボールしようって言われた時 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月08日

母とカレーの思い出

697 :( ´∀`)ノ7777さん :2006/06/06(火) 21:49:08
母親が俺が小2の頃、子宮ガンで入院する事になった。
母親が家を出る前日に作った最後の夕食がカレーだった。
俺はガキだったから、子宮ガンがそんなに怖い病気だなんて知らなかった。
母親は一ヶ月もしたら帰ってこれると思ってたし。

でも、もう帰ってくる事はなかった。
不思議なもんで、そのカレー以外の母親の料理の味って一切覚えてない。
母親と一緒に食事する姿もそのカレー食ってる場面だけ。
と言っても、母親は食欲なんて既になくて、ただ俺がカレー食ってるのを
何とも言いがたい、悲しそうな表情で見てるだけ。
「あしたもちゃんとレンジで温めて食べるんだよ。お母さん、明日朝早く行かないといけないんだからね。」
それが、家で聞いた最後の母親の言葉だったと思う。

小2の夏休み、8月に入ってまもなく、母親が死んだ。
親戚も近くにいないし、兄弟もいない。親父は元々忙しい人だったから、いつも帰りは遅い。
それでも俺はガキなりに家事を覚えて、料理も簡単なものなら何でも出来るようになった。
でも、カレーだけは作らなかった。大鍋でカレーでも作っておけば楽なのにも関わらず。
なぜなら、母親が最後のカレーを作ってた時、俺が手伝おうとして鍋を焦がしてしまい、
母親に怒られたのを思い出すから。それが母親に怒られた最後の記憶。
以来、カレーは外でしか食いません。


2006年06月08日21:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 母とカレーの思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

新人の頃の革靴の思い出

246 名前:日出づる処の名無し 投稿日:2006/06/07(水) 16:16:51
初めて、値段の張る革靴を買った時を思い出す。
「革靴って…本当はこんなにも履きやすい物だったのかぁ!!!!!」

268 名前:日出づる処の名無し 投稿日:2006/06/07(水) 17:25:34
>>246
同意orz
前の仕事で24`分の資料とカタログ、商品見本を持って電車で営業廻ってた。
免許は持ってたけどぺーぺーの自分には配車されなかった。
足が痛くて痛くて、でも何とかeccoのパンプスでならがんばれていた。それでも毎月毎月履きつぶしていた。
帰りは最寄り駅にスニーカーを置いて履き替え、痛いのを誤魔化しながら帰っていた。

ある日、会社に資料を作りに行った、ビルのエレベーターが23時を過ぎて終わってた・・orz
8階まで靴を脱いで手に持ち、鞄と紙袋を前に抱きかかえて登り切って、
「痛い・・痛いうう(半泣き)頑張れ自分(今日中に報告書まとめないと給料でないお・・(´;ω;`))ブツブツブツ」と言ってるところを上司に見られた。

上司「・・大丈夫か?」私「はい、今月分だけまとめれば良いので何とかなると思います」
というような事があった後直ぐのボーナスが出る日、突然飲みに行った事も無い上司から呼び出された。


行ったこともない銀座のフェラガモ本店だった、会社の業種には何も関係が無い。
不思議に思いながらも「家族の見立てに付き合って欲しいのだろうか?」と行ってみると、
私の靴を買ってくれた、6万円以上する茶色でツートンカラーの高い靴。
吃驚して「貰えない」と言うと、「その分会社に還元してくれ」と言う・・
「こんな高い靴履いていける場所は無い」というと「普段履きだ」と言う・・
「でも・・(こんなにヒールの高さがあったら、絶対痛くて歩けなくなる・・)」「良いから、履いて見ろ」
緊張して何だか解らない内に、フィッターの人が選んでくれた靴だった。
店内で20分くらい履いていたら、クッションの良い中敷きでも無いのに痛くない・・
足を動かすと何処までもしっかり付いてくる、驚いた、何というかとても楽。履いてると楽。

世の中の人が高い靴を買う理由が解った。
結局半年後に営業車が貰えて、前ほどは・・泣きながら帰るくらい痛い状態は無くなった。
1年間ズーッと履いて履きつぶしてしまったが、あのときの靴はまだ棄ててない。


2006年06月08日18:00 | コメント(9) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 新人の頃の革靴の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月07日

寒い日に家に連れてきた子猫

57 :おさかなくわえた名無しさん :2006/06/06(火) 04:57:01
くっそ寒い日に拾ってきた子猫。
カリカリも缶詰もたらふく食って、つちのこみたいな腹になって
俺の腹の上でスピスピ寝やがった。

すっげぇ元気だったのに、4日目の朝、突然おかしくなった。
まるで目が見えていないかのように部屋の中をぐるぐる徘徊し続けた。
医者に連れて行ったらウイルスで脳が侵されているかもしれないと言われた。
致死率の高い病気の可能性があります、と。

見舞いに行くたびに弱ってくのがわかった。
小さな体が何度も何度も痙攣で震えている。
おまえ、どんだけ苦しいんだよ。
死ぬなよ。
俺の命をわけてやるから絶対に死ぬなよ!

入院して一週間、病院から子猫の容態が悪化したと連絡が入った。
エリカラと点滴外して家に連れて帰ってきた。
何度も痙攣しながらも頑張っている子猫を、先住猫たちも心配そうに見守っていた。
もうすぐ朝の5時になるとき、子猫は死んだ。
俺の膝の上で、一瞬可愛い顔になったと思ったら、死んだ。

子猫のことを思うと、今でも泣けてくる。
2006年06月07日02:24 | コメント(5) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 寒い日に家に連れてきた子猫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月06日

借金持ちで転職したばかりの私の元気のもと

54 :2006/06/05(月) 23:15:33
事業に失敗して結構な借金抱え、春に転職した45歳。
たいした給料も貰えないけど、もうこの年じゃ仕事の選り好みもできない、
年下の上司に物覚えが悪いだの動作がのろいだの、けなされても、
ま、ある意味しょうがないし、とにかくクビにならないよう努力あるのみ、
ってことは重々承知なんだ。でも、時々くじけそうになるんだよ。
そんな時、すごく元気をくれるのが結婚13年目にやっと出来た
一人娘(7歳)なんだな。(あ、妻もちょっと元気くれるけど・・・)
もうズタボロ状態で帰ってきても、待ってましたとばかりに出迎えられると
いちいちくじけてる場合じゃないって、俄然パワーが湧いて来るから不思議だよ。

今日もまあ、元気をいっぱいもらって、いつも通り発泡酒飲んで、ふと子供の
寝顔みてたらさ、なんかさ、急にこいつのこと不憫に思えてきてさ。
涙が止まんなくなっちゃった。
妻にも迷惑はかけているけど、子供は選んで生まれてきた訳じゃないしね。
欲しいものもろくに買ってやれないし、この先、俺はちゃんと面倒を見ていけるのかな?
ちゃんと嫁に出してやれるのかなって、こいつ俺らのとこに生まれて来ずにもっと裕福な
家に生まれて来ればよかったのに、とか何かイロイロ思って・・・・
妻は大泣きしている俺みて、オロオロしているしそんな彼女まで何かいとおしく
なって、・・・あかん、また泣けてきた
2006年06月06日20:47 | コメント(8) | トラックバック(1) | 感動 はてなブックマーク - 借金持ちで転職したばかりの私の元気のもと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月04日

朝焼けに照らされたゴミ収集車

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 04:19:54
あれは確か、終電逃して近くのネットカフェで一晩過ごした時だ。
早朝にカフェを出て駅へ向かう途中で、ゴミ収集車に乗ってる親子連れがいた。
多分、「お父さんの仕事見てみるか?」って感じの流れで運転席に子供と奥さんを
乗せてたんだと思うんだけど、凄く幸せそうに見えた…

「俺には一生ああいうのはこない。絶対に一生来ないんだ。」
って思ったら涙が止まらなくなってさ。
横断歩道の手前の電柱に寄りかかって大声で泣いたのを覚えてる。

あの時に見た、朝焼けに照らされたゴミ収集車の姿が今でも脳裏に焼きついて離れない。
2006年06月04日02:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 感動 はてなブックマーク - 朝焼けに照らされたゴミ収集車 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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