2006年05月16日

30年前に父が書いたラブレター

755 名前: 可愛い奥様 2006/05/12(金) 23:02:07

長患いしていた父がとうとう逝ってしまった。
前々から「俺が死んだらアレを棺おけに入れてくれ」と託されていたものがある。

便箋いっぱいに、大きく四文字だけ書いたラブレター。
若かりし頃の母が、父からもらった30年前のラブレター。
母が隠していたのを、いつの間にか見つけて自分で持っていたという。

「 す き で す 」

一文字、一文字をよく見ると母の名前の集合体で出来ている。
この手紙がなかったら私は産まれて来なかった。
ありがとう、お父さん。ちゃんと入れといたからね。
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2006年05月15日

父に言ってしまって後悔したこと

946 :おさかなくわえた名無しさん :2006/05/14(日) 13:23:30
俺が消防の頃。

サッカー少年団に入ってて、毎日遅く迄練習。
帰ってきて夕飯、TV観てれば9時位になる。

そんなある日、TV観ながらゴロゴロしてると…
親父『(新聞読みながら)早く勉強して、寝ろよ!』
俺『うるさいなぁ!!』
そんな感じで言い合い。

親父が新聞読むの止めて、トイレに行く。
その間に、新聞の隅に“うるさい!働きに行け!!”って書いた。
俺の親父は、労災で働けない体なのに…

それから、俺は一人で風呂にはいってた。

947 :つづき :2006/05/14(日) 13:33:37
そこに親父が入ってきて、ポツリと
親父『父さん、働いたほうがいいか?……
…父さん死んじゃってもいいんだな?』
って言われたとたん、大声で泣いたよ。
なんてこと書いたんだ!
俺はバカだって責めて、風呂から出てきて床についても、泣きじゃくった。母さんは訳もわからず泣いてる俺を見て??になってたけど
あの時が生きてきた中で、一番泣いたな。
朝まで泣いてて、目がすごく腫れてた。

949 :おさかなくわえた名無しさん :2006/05/14(日) 14:10:46
親父はトラック野郎だったんだ。
トラックに荷を積んでるとき、ロープがしっかり架かってなかったんだって。
3b位のとこから、後向きに落ちて首やっちゃって、
今も頸椎がズレちゃってる。体の左側に痺れがあるんだ。
普段の生活はそれぼど、支障はないけど、
雨の日頭痛くなったり、痺れがひどくなったり、
風邪ひくと発作が出たりするんだよ。
ズレた首の骨が頸椎の神経を圧迫して、なるんだと。
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2006年05月13日

私に名前をつけてくれた祖母

518 :名無しさん@どーでもいいことだが。:2006/05/11(木) 23:45:45
>>490
どんな素敵な名前なんだろう。名前褒められると嬉しいよね。

名前つながりでずっと吐き出したかったチラシ1枚。
自分の名前は父方の祖母が考えてくれたものだ。
漢字も読みも二文字の、超伝統的な日本人女性名。
わかりやすく言えば三戸校門とか大丘絵知全とか
禁さんとかに必ず出る、レギュラーだった事もある名前。
悪く言えばバアサンの名前なため小さいころは
自分の名前がキライでキライで仕方なかった。

決定的だったのは小学校入学時、名前だけ聞いた相手に
全員男だと思われた事。
子供だから今思えば女性名だとわからなくて当然なんだが、
当時は相当ショックだった。

でも大きくなってからふと
何故両親は祖母に自分の名前をつけさせたのかと思い、
両親にその時のことを尋ねてみた。
自分には姉が1人いて、姉の名前は母がつけた。
自分が生まれた時は父が命名するはずだったのだが、
二人目が娘とわかった時に父は祖母につけさせようと思ったのだそうだ。

祖母は女の子を切望していたものの、
その機会に最後まで恵まれなかった人で、
一度だけ授かった女の子は首にへその緒が
巻きついてしまっていて死産だった。
娘が生まれたら絶対につけたい名前があったのだそうだ。
そのことを知っていた父が「自分はいい名前思いつかないから
母さんいい名前考えてくれないか」と私の命名権を祖母に譲ったのだそうだ。

数年前、祖母は風邪をこじらせ4ヶ月の入院のすえ亡くなった。
恐ろしいほどの勢いで進行した認知症と、
肺に水がたまり重度の酸欠がひきおこした
脳障害のせいで最後のほうは私のこともわからなくなってしまった。
でもとうとう「こんな素敵な名前つけてくれてありがとうね、ばあちゃん」と
言えないままだった。
今でもそのことを死ぬほど後悔している。

進級し社会に出て名乗る機会が増えると、
名前を褒められることが多くなった。
字がいいし、とても日本人女性らしい
良い名前だと言われることも多い。
この名前は一生私のいちばんの誇りだよ、ばあちゃん。
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2006年05月12日

おばあちゃん子だった私

756 :名無し職人 :2006/05/11(木) 17:42:43
俺はおばあちゃん子だった。
両親が共働きだった事もあって妹とお婆ちゃんと
3人で暮らしてるようなものだった。

中学校にあがって俺は少し荒れた生活を送っていた。
タバコや酒を覚えたのもこの頃からだった。

ある日、大き目の喧嘩があって血だらけで家に帰った事があった。
お婆ちゃんはものすごくびっくりして泣いていた。
次の日、俺と仲間数人で報復に行ったが見事に返り討ちにあってしまった。
もうだめだ!と、思った時お婆ちゃんが走ってきて、
「ごめんなさい。ごめんなさい。
○○ちゃんは本当は優しい子なんです。
許してやってください」と泣いて誤っていた。。。

そんなお婆ちゃんが先月死んだ。

思えば葬式で一番泣いてたのは俺かもしれない。
数日後、遺品を片付けていると俺の名義の通帳と手紙が入っていた。
みると少ない年金でこつこつ溜めてきたものらしい。
「○○ちゃんが結婚する時の足しになれば良いと思って、、」
この文を読んだ時、目から涙が溢れ出してきた。。
ごめんよ。。
ごめんよ。。
俺、頑張るよ。
だから安心して見守っていてね。お婆ちゃん。

これは俺の大切な思い出だし、フィクションの話です。
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2006年05月05日

あるバーテンダーの話

529 :2006/05/04(木) 13:25:54
昔、俺がまだ神戸で雇われのバーテンダーだった頃の話。

その店は10階建てのビルの地下にあった。で、地下にはうちの店しかないんだけど、階段の途中にセンサーが付いてて、人が階段を通るとカウンターの中のフラッシュが光ってお客さんが来たのがわかる仕組みになっていた。

でもたまに、フラッシュが光っても誰も入ってこない、外を見ても誰も居ないって事があって、俺は寂しがりやの幽霊でも来たのかなって半分冗談みたいに、ウイスキーをワンショットカウンターの隅の席に置いて「ごゆっくりどうぞ〜」と言っていたんだ。

それからはそれがおまじないというか、げんかつぎみたいになって、そうゆうことがあると、いつもそれをしてた。そのうちお客さんも「おっ今日も来てるねー」みたいな感じになって(そうゆう日に限って店は凄く忙しくなった) 姿は見えないけど、その頃は店の常連さんみたいに思っていた。

ある冬の朝方、またフラッシュが光ったんで、こんな遅くにお客さんかぁと思って外を見ても誰も居ない。なんかそのまま朝の空気が心地よいので、階段の上まで昇って一服してたら、突然の大地震。そう阪神大震災です。

うちのビルは地下と一階部分がぺっちゃんこ。あのまま中に居たら確実に死んでました。

あとから考えるといつもただで飲ましてあげている、あの見えない常連さんが助けてくれたのかなぁと思います。

今も違う場所で自分でお店をやってますが、その店のスイングドアが風も無いのにギギィーって揺れたりすると、今でもウイスキーをワンショットカウンターの隅に置いてます。

そして心の中で「いらっしゃい。あの時はありがとうございました。」と思うようにしています。
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父と納豆の思い出

825 投稿日:2006/04/28(金) 21:12:35
オトンが毎日納豆を食べていた。
納豆2パックに卵1個に大量のネギ。
卵を1個まるまる入れるのでちょっとちょっとゆるい感じがする。
で、オトンは納豆を酒のつまみにして、私もおすそ分けしてもらった納豆をご飯のおかずにして……

それから約30年。私は嫁に行った。
ダンナは納豆にたれとカラシの普通の食べ方だった。
オトンに孫を見せると喜んでくれた。
で、オトンが死んだ。別に急死でも変死でもなかった。
今年3回忌だった。

思い出話の1つとして「お父さん、納豆好きだったよね」と母に話した。
私「お父さん、いつも納豆2パックに卵1個入れてたよね」
  「そういう食べ方ってわりと珍しいよね」
母「お父さんっていうよりあんたが好きだったからね」
  「お父さんは普通に醤油かけるのが好きみたいだったよ」
  「あんたがそういうの食べたいっていうから」
 
あやー、オトン、バッカじゃない。
納豆くらい自分の好きなように食べればいいじゃない。
30年ホントに全然気がつかなかったよ。

オトンのバカへ。ありがとう。
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2006年05月02日

小さな食堂に着た親子

679 名前: 投稿日:2006/05/01(月) 15:22:27
小さな食堂(夫婦と息子さんで経営。バイトは私だけの合計4人)でバイトをしています。基本的に調理は旦那さんと息子さんがやっているのですが、付け合せの人参のグラッセなど簡単なものは私が作っています。

昨日最後に来たお客さん(親子3人)が「この人参のグラッセを作ってる人はどなた?」と聞いてきました。私は不味いと苦情を言われるんだと思い、震えながら「私です」とお客さんがいるテーブルに行きました。

お客さんは私をじろじろと見て「そう、あなたが作ってるの…」と呟きました。私はもう怖くて怖くて、手をぎゅっと握ってその視線に耐えていました。

そうしたら奥さんの方が「うちの子、人参が大嫌いでどんな料理にしても絶対に食べないの」と言いました。「それなのに、このお店のグラッセだけは美味しいっていつも嬉しそうに食べるのよ。良かったらレシピを教えてくれないでしょうか」とメモ帳とペンを私に差し出してきました。

そういうことは店長に確認を取らないといけないので、冷静を装ってと厨房に行きましたが、実際は嬉しくてぼろぼろ泣いてた。

厨房に行くと店長は「話は聞いてた。レシピは教えてやっていいぞ」とレシピのコピーをしてくれていました。そして「これも持っていけ」とグラッセとうちの一番の自慢のコロッケを渡してくれました。

お客さんにレシピと「これは気持ちです」と料理をテーブルに載せると、子供は満面の笑みで「ありがとう!」と、夫婦も「このコロッケ凄く美味しくて大好きなんです」って美味しそうに食べてくれました。

このことが本当に嬉しくて嬉しくて、お客さんが帰った後、思わずおお泣きしてしまった。
店長が「料理屋は客に美味いと言われるのが最高の幸せだ。だから今のお前は最高に幸せなんだぞ」と言って、私が泣き止むまでずっとお店にいてくれました。

お店もここにくるお客さんもみんな大好きだ。
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2006年04月30日

昔入院してた時、夜中に病室から抜け出した・・・

819 :2006/04/29(土) 14:27:38
俺が小2の時の話。
俺は病例が珍しい高血圧病にかかっていた。
何回も血取られて、薬も飲んで、消防の俺にはつらかった。
でも、かあちゃんは家から2〜3時間かけて毎日お見舞いに来てくれた。


ある日俺は夜中にどうしても母ちゃんに会いたくなった
が、俺は手術後数日だったので病室から出るのは禁止されていた
俺は何とか夜勤中の看護師(その時は確か眼鏡の男しかいなかった)がいる
ステーションをほふく前進でくぐり抜け、(そのころはまだ
ケータイは普及していなかった)売店の横にあった公衆電話にたどり着いた。


カードを入れ、家の電話番号を押しているころにはもう半泣きだった。
母)もしもし…え!?あんた●●ね!?こげん時間にどがんしたと!?
俺)…母ちゃん…帰りたか…f58stf(泣いてて何言ってるかワカンネ)

しかし母にはとりあえず寂しいことだけは伝わったらしく、俺を優しく部屋へ帰るようになだめた


で、それはそこで終わったんだけど、最近テレビ見てて死んだ息子と交信するとか何とかいう番組を見てたとき、いきなり母がしゃべりはじめた。


俺から電話があったあの時、母ちゃんも泣いたらしい。
俺はそこそこ元気になっていたが、術後数日は安心できないということで死ぬほど心配だったらしい。そのときに俺が電話したもんだから、部屋に戻れ!と怒る前に俺の声がしっかりしていて、安心したんだと。


俺はその話を聞いた直後は恥ずかしいので「そうだったっけ」みたいな感じで流したが、その日寝る前にベッドで声我慢して泣いた。

いまはもうあらから何年もたって、病気も直ったが、あのときの電話越しに聞こえた優しい母ちゃんの声は一生忘れん。
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2006年04月28日

私を可愛がってくれた祖父との思い出

491 名前:投稿日:2006/04/26(水) 12:51:13
皆さんのお話を読み、俺が高校生の時に逝った爺ちゃんの事を思い出しました。乱文かと思いますが綴らせてもらいます。

俺は爺ちゃんにとって4番目の孫でしたが他の孫達は皆地方に住んでいて、自営業の寿司屋を継いだ親父の子である俺を爺ちゃんは内孫として特に可愛がったそうです。
でもまだ俺が小さい頃は、爺ちゃんが苦手でした。

小学生の時、俺は少年ラグビークラブに通っていて毎週日曜日の練習後は仕事で迎えに来れない両親の代わりに爺ちゃんが迎えにきてくれました。けど昼飯でたまにファミレスなんかに入ると爺ちゃんは昭和初期からの職人気質で(寿司屋の板前です)中々届かない料理にウエイトレスを度々呼んではいつも怒っていました。
その時の爺ちゃんは子供ながらに怒らせちゃいけない存在なんだと思っていました。

ある時、赤いファイアーパターンが自慢のMTBを爺ちゃんが勝手に真っ黒に塗ってしまったことがありました。爺ちゃん曰く、『赤い自転車なんて女の子の乗り物だぞ!』らしく、流石に両親に泣き喚いて親父が爺ちゃんをこっ酷く注意したそうです。
普通の祖父なら新しい自転車を買うのかもしれません。けど爺ちゃんは俺を地元の馴染みの喫茶店に連れてってこう言いました。
『俺が死ぬまでお前は此処でアイスくりぃむ食べ放題だぞ!』
あの恐い爺ちゃんがアイスって、可笑しかったのを覚えています。いつも額に皺を寄せて恐い顔をした爺ちゃんでしたが甘いモノは大好きでその間だけ笑顔になるのが俺自身とても嬉しかったんです。
それと癖なんですが俺は小さい頃から皺などの柔らかい部分を撫でるのが好きで爺ちゃんに逢った時はよく顎下辺りを撫でさせてもらいました。
この時も爺ちゃんは嬉しそうに笑ってくれたんです。


中学に入る頃、爺ちゃんは足を怪我して歩かなくなりました。
家族に甘えていたんだと思います、リハビリをしっかりすればまだ歩ける可能性はあったのに爺ちゃんは全然リハビリを受けませんでした。日に日に身体も衰弱し、入退院を繰り返しました。
俺自身、中学生になってからは色々忙しくなり、あまり爺ちゃん家にも顔を出さなくなりました。

高校の入学式、久々に爺ちゃん家に行った時には爺ちゃんは身体も小さくなり、一歩もベッドから出れない状態になっていました。自宅療養を願い、もうあまり時間も無いと医者も言ったので週2でヘルパーを頼み、婆ちゃんと一緒に介護をしていました。あまり喋ることも出来なくなっていて名前を呼ぶのが精一杯という感じです。
それでも爺ちゃんの好きな苺ジャムパンやアンパンなんかを持っていくと爺ちゃんは笑顔になって顎下を指で指してきました。俺はやるせない気持ちで爺ちゃんの顎下を撫でました。


春、爺ちゃんの好きな桜が咲いた日の夕方、爺ちゃんは天国に逝きました。

親父に呼ばれて急いで駆けつけて、死に目には逢えませんでしたが、その顔はうっすらと、口端を上げて笑っていました。婆ちゃんが泣きながら俺の手を握っていました。

皆で身体を拭いてあげました。上着を脱がして背中、胸、腕…。俺の番になりました。
その時、初めて俺は涙を流しました。嗚咽も無く、ただひたすら涙だけが頬を伝っていました。俺は握ったタオルを顎の下にもっていきました。
皆が泣きました。俺がその部分を好きだというのは皆知っていました。
俺は涙で前が見えないのにゆっくりと、優しく、あの柔らかい部分を撫でてあげました。
まだ暖かく、爺ちゃんの顎下はとても柔らかかったです。

葬式は自営業の店で上げる事にしました。戦後の焼け野原から築いた場所で還してあげたかったんです。白袴も断りました。
生前爺ちゃんのお気に入りだった茶色のジャケットとストライプの入ったパンツを履かせてあげました。死化粧を施してジャケットを着こなした爺ちゃんは、あの頃の元気な爺ちゃんに戻ったようでした。


沢山の人が通夜に来ました。親戚、近隣住人、数少くなった友人達、若い頃世話になったというヤクザ者まで、本当に沢山の人が集まりました。遺影はまだ爺ちゃんが元気な頃に撮ったと思われる写真が使われました。どうも爺ちゃん自身が用意していたものらしく棚に封筒で包んでしまってあったそうです。ただ何故か荒画質の荒さが目立っていました。それでも爺ちゃんの表情は、俺の大好きだったあの笑顔でした。

それから数日後、後片付けをしていたオカンから電話があって爺ちゃん家に行きました。するとそこには涙を流したオカンと婆ちゃんと親父がいました。親父が俺に何かを差し出しました。
『見てみろ、お前が、あの爺さんの笑顔を作ったんだ』
俺は差し出されたものを見ました。写真のようでした。ジャケットを着た爺ちゃんが写ってました。袴を着た幼い俺が写っていました。
俺の七五三の写真でした。爺ちゃんの顔の部分に印がついていました。

遺影に使われた笑顔は、俺の七五三で笑った笑顔でした。

俺は写真を見た瞬間、初めて人前で声を上げて泣きました。息が出来ませんでした。息の仕方も忘れてただ泣きました。婆ちゃんが抱きしめてくれました。オカンが手を握ってくれました。


爺ちゃん。あの後、喫茶店に行ったんだ、爺ちゃんと一緒に食べた同じ席に座って同じ抹茶アイスを2つ頼んでさ、美味かったろ。
爺ちゃん。最後、あまり行けなくてご免な、優しくない孫でご免な。
爺ちゃん。本当に、本当に、有難う。
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2006年04月24日

弟が鏡の前で笑う理由

372 名前: 投稿日:2005/12/09(金) 01:56:54
もう何年も前になる。
中学生の弟が鏡の前で一人で笑ってるのを見掛け、吹き出しかけた。服や髪に気を遣いだし、彼女が出来たと喜んでた時期だった。だから、今度は笑顔を作る練習でも始めたのか?と考えた。9つ離れてるから弟が生まれる前から知っていて、あの赤ん坊が大きくなったもんだと、兄貴面して見なかったことにしてやった。その後もそういう姿を幾度か見掛けた。

どれだけ経ってか、弟と喋るうちにやっと理由が分かった。
前に法事で親戚が集まったときに、みんな口を揃えて「○○(弟)は笑ったらお父さんにそっくり!」って言ってたんだよ。
俺から見ても、確かによく似てる。父が死んだのは弟がまだ幼いときで、弟は父の顔を憶えていない。父は写真を撮られるのが苦手だったから、笑顔の写真が一枚もない。

弟は普段、誰かが父の話をしても、大して興味なさげにしてるだけだった。だから、記憶に残ってなきゃこんなもんかと寂しく感じたこともあった。でも、そんなわけないんだよな。弟は、ああやって父に会ってたのかと思うと、なぜか弟に申し訳なく切なくなる。
あの時、からかわなくて良かった。
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2006年04月23日

子供を持つとはじめて分かる親心

4 名前:投稿日:2006/03/02(木) 14:12:24
1990年の年末、親父に泣きついて夜中に並ばせてまで買ってもらったスーパーファミコン!翌朝、得意になって帰ってきた親父に「ありがとう!」の一言も言わずに受け取った俺。そん時の親父の手がめちゃくちゃ冷たかったのは後で思い出した。

あれから16年。俺も9歳のガキを持つ親になり、今度は俺がコイツにせがまれて夜中にできた列に並んでいた。あの時の親父はどんな気持ちでこんな寒い中並んだのだろう。

今の俺と同じで「こいつの喜ぶ顔が見れるなら!・・・。」と喜んで並んでいたのかも。

親父がいない今になってやっと親の気持ちがわかった。


6 名前:投稿日:2006/03/02(木) 14:57:10
>>4
深夜の二時から一緒に並んでたおばちゃんも子供が喜ぶなら全然苦痛じゃないって言ってた。

死んだ俺のばあちゃんもよく早朝からゲーム買う為に並んでくれたな。
実家に線香あげにいこ。
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2006年04月22日

高校生の時出会ったバイト先の料理長

842 :2006/04/16(日) 19:52:01
ああ、おまいら見てたら思い出したくなかったけど辛い過去思い出してしまった・・・

私が厨3ぐらいから母の体調が悪くなってしまい、病院にずっと入院することになった。私は父は仕事があるので兄貴と交代で学校を休んだりして見舞いをしたりしていた。

しかし、私が高校2年の夏に父が『これ以上母の面倒はみきれない』と書き置きを残して蒸発した。ここでも毎日死ぬほど泣いたが、生活は父の収入で支えていたのでこの時から家計を私と兄貴の二人で支えなくてはならなかった。

兄貴は大学生でそれなりに時間もあったので高収入のバイトでそれなりに稼いでくれていた。しかし、私は高2。できるバイトなど殆どなく、一番短時間で時給がよかった某料理店のウェイターのバイトをしていた。

そこで毎日何時間もバイトをしていると、その店の料理長が、『なんでそんなに頑張っているんだ?』と声をかけてきた。私は母のこと、父が蒸発したこと、家計の心配などを全て泣きながら何時間も話した。
すると料理長は、『こんなことしているよりももっと稼げる方法を教えてあげる』と言った。
なんと、私に料理長が直々に料理を教えてくれて、私に料理を作れるようになったら、バイト先で本料理人として雇うということだった。
そして毎日料理長が料理を教えてくれて、高校卒業後の進路も料理の専門学校に勧めてくれて、入学金の一部を料理長が持ってくれた。

今では大学を卒業して免許をとった後、バイト先が今の私の職場になり、高い入学金を持ってくれた料理長に少しずつでも返せるぐらいにまでなった。

母は退院できるぐらいには回復、父は・・・まだ見つかってない。もう探す気すら起きないが。

料理長、ありがとう。そして今私は泣いている。
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2006年04月21日

左目の見えない私の主人と息子

479 : 投稿日:2006/04/16(日) 21:51:26
主人は3年前に左目を失明した
義眼を入れているので、見た目は言われなければわからない

失明した原因は当時1歳7ヶ月だった息子とじゃれあって遊んでいた時
おもちゃの先端が主人の左目に運悪く刺さってしまったからだ
事故当時、主人より息子の方が泣き叫んでいたように感じる
子供心にただ事ではないことを感じていたんだろう
傷の具合が良くなくなってから主人は、自分の運転中に何かあってはならない、と車の運転をやめた
趣味だったバイクも売った
ただ、いつの日か後ろに乗せて一緒に出かけるために、と息子の1歳の誕生日に買った
新品の子供用ヘルメットはまだ家にある

4歳を過ぎた息子は今、父親の左目が見えないことも、なぜそうなったかも、まだ知らないはずだ
言ってはならないと主人にきつく言われているし、私自身わざわざ教える必要もないと思っているからだ
ひょっとしたらもう父親の異変に気づいてるのかも知れない

主人は今日も息子と一緒に公園に出かけ、大はしゃぎしながら帰ってきた
いずれ父の左目が見えないことも、その理由も知る時が必ずやってくるだろう
だけど私には泣きじゃくる息子の頭を笑顔で撫でている主人しか想像できない

主人が、父親が、彼で本当によかったと感謝の気持ちでいっぱいだ
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2006年04月18日

翌日遠足だと知った父がとった行動

905 名前: 投稿日: 2006/04/17(月) 12:47:49
小学生の頃、母親が入院していた時期があった。
それが俺の遠足の時期のちょうど重なってしまい、俺は一人ではおやつも買いに行けず、戸棚にしまってあった食べかけのお茶菓子とかをリュックに詰め込んだ。
そして、夜遅くオヤジが帰宅。
「あれ・・・明日遠足なのか」と呟き、リュックの中を覗き、しばし無言。もう遅かったので、俺はそのまま寝てしまった。

次日、リュックを開けて驚いた。
昨日詰めたおやつのラインナップがガラリと変わっている。オマケのついたお菓子とか、小さなチョコレートとか・・・ オヤジ、俺が寝てからコンビニ行ったんだな。俺、食べかけの茶菓子でも全然気にしてなかったんだけどさ。

あの時、オヤジがどんな気持ちでコンビニへ行ったかと思うと、少し切なくなる。
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2006年04月16日

妊婦の妻から優しい夫に感謝の言葉

395 名前: 投稿日:2006/04/11(火) 09:47:01
私は専業主婦なのに、妊娠してからお風呂掃除や休日の買い物はいつも自分の仕事にしてくれている。それ以外でも、頼めば何でも手伝ってくれる。
会社帰りに毎日「今から帰る。何か必要なものある?」とメールを必ずしてくれる。
夕べは日帰り出張の帰りに、ご当地甘味と可愛いベビー服を買ってきてくれた。だって家族だから、と私の頭とおなかを撫でてくれる。

旦那実家から、妊婦はああしろこうしろ次は男産めうちの病院で産めの電話攻撃がすごいことなんて知らなかった。(知らない間に着信拒否になってた・・)きっと私の知らないところでもっと色々あったんだと思う。全部一人でしょいこんでくれてたんだね・・。

ありがとう、大好きです。
パパと出会えて家族になったことが私の人生で最高の出来事です。
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すごく美人な幼馴染の話

188 :2006/04/13(木) 20:01:15 0
俺は凄い美人の幼馴染がいて案の定中(挨拶程度)→高(ほぼ会話なし)と疎遠になっていったのだが、上京して大学生で一人暮らししてる時突然電話してきて
「今度、東京に住むことになったの(短大出で就職したらしい)、知り合いが居なくて心細いからあーくんの近くに住みたい」
最初冗談かと思ったんだが、本当に上京してきて、一緒に部屋探してあげて
同じマンションの空き部屋に住むことになった。

青春期の時が嘘みたいに昔みたく仲良くなって、ほとんど毎日俺の部屋に居た。実家が隣なので里帰りも一緒。でも、恋愛とかエロいことは一切なかった。本当に中のいい友達。

こないだその子の結婚式に出ました。お酌をしに行って「おめでとう」って言ったら不意に涙が出た。その子も泣いた。
理由はわからない。幸せになって欲しいと心から願う。
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2006年04月10日

オークションで知り合った女性のこと

40 :2006/04/09(日) 05:31:22
今から5年くらい前にヤフオにウィッグを出品した事があった(全ヅラタイプ)
出品して二時間、早期終了願いが質問欄から。断ると、あまりにもしつこいので理由を聞いてみたら…
白血病の姉が一時帰宅する事になったからプレゼントしたいとの事。感動してしまい、速攻終了して他にも出品予定だったウィッグを全部オマケして速達で送った。かなり赤字だったけど何だか満足だった。

それから二週間くらい過ぎた頃、手紙と写真が送られてきた。とびきりのお洒落に、例のウィッグ姿。
満面の笑み。
とても綺麗な21歳の女性でした。
手紙には感謝のメッセ。
嬉しかった。

それから自然に彼女との文通が続いた。二年半を過ぎた頃、パッタリと手紙がこなくなった。それから半年くらい過ぎた頃、妹さんからA4サイズの封筒が届いた。中には写真と、書き掛けの手紙、そしてもう一枚別の写真・・・

葬儀の集合写真だった…

涙が止まらなかった…
以前手紙に私は、いつか退院したら、素敵なプレゼントあげるね☆って約束した。それは高価だったけどとても彼女に似合いそうなウィッグと洋服。

先月プレゼントを持って初めて彼女に逢いにいった
もちろん彼女が眠る場所に…
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2006年04月03日

100円ショップの常連のおばあさん

798 名前: 投稿日: 2006/04/02(日) 04:23:27
数年前100円ショップでアルバイトをしていた。
2〜3年勤めたので、常連さんとはけっこう仲が良かった。
その常連さんの中に、あるおばあちゃんがいた。
白髪で小っちゃくて腰が曲がっていて、カート?を押しながらゆっくり歩いてくる。そしてお気に入りの黒飴を2〜3袋買って行く。
少し耳は遠いけど、いつもにこにこして可愛らしくて、来店頂く度に私もやたら買い物のお手伝いをしてしまったりしてたw

しばらく楽しく働いてたんだけど、私は就職が決まってバイトを辞めることになった。

出勤日数も残り少なくなった頃におばあちゃんが来店されたので、少しの会話の後に辞める事を伝え、お礼を言い挨拶をした。
おばあちゃんは「おめでとうね、頑張ってね」ってしわしわの手で私の手を握ってくれた。
レジでお気に入りの黒飴を精算し、いつものように財布やらが入ってる小さいリュックを背負うお手伝いをした後のこと。
ごめんねぇ、と言いながらおばあちゃんが泣き出した。
昔、娘さんとお孫さんを同時に亡くして私にお孫さんの面影を重ねていたこと、私との他愛ない会話が嬉しいといつもおじいちゃん(旦那様)に話していた、と言って涙をぽろぽろ流していた。
丸めたくしゃくしゃのティッシュで目頭を押さえているおばあちゃんを見て、私も店内に関わらずで泣いてしまった。
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2006年04月02日

馬鹿犬ジョンとうちの息子

617 :名無しの心子知らず :2006/03/06(月) 10:43:00
うちで狩っていた馬鹿犬。幸いに他人様に噛みつく事は無かったけど
誰彼かまわずに吠えて飛びついて行っていました
そのバカ犬が唯一、噛みついた事があるのが我が家の息子(当時6歳)
息子はおもいっきり噛まれて泣きながらも「人を噛んだらダメだよぅ。怖い所に連れていかれちゃうんだよぉ。そんなの淋しいよぅ(ヒック)」
慌てて犬を叱ったダンナに対しても「ジョンはふざけてただけだから怒らないでぇ」と泣き叫ぶ始末
それ以来、バカ犬は不思議と死ぬまで、息子にだけは仲良く、尻尾を振って遊ぶようになりました

息子も小3になり、バカ犬は病気の老犬になりました
病気で弱りきったバカ犬
エサは食べないのに、頻繁に吐くようになりました
病院の先生からも諦められてからは
息子が嘔吐物や汚物の世話を付きっきりで見てました
ある日、息子が「今日はジョンと一緒に寝ても良い?」と聞いてきて私が渋々と了承すると
息子は、バカ犬を抱いて寝ました
バカ犬は、それが最期の晩でした
息子に聞いた話では、最期に息子の顔を舐めて、それから息子の腕の中で次第に体が冷たくなっていったそうです
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2006年04月01日

10年前に泣く泣く手放した愛車が・・・

273 名前: 投稿日:2006/03/31(金) 13:26:48
厳密にはスレ違いかもしれないけど、奇跡を体験してる今
ここに書きたいと思います。
今から10年前ですが、6年間乗ってたCITY TURBO2を手放しました。就職して大阪にに転勤する際に駐車場が無かった為です。泣く泣くでした・・・
当時の彼女(今の嫁ですが)と、涙目でワックスを最後にかけた事も覚えてます。次のオーナーにも大切にしてもらえるように、最後にメンテナンスにも出しました。

ところが、大阪から転勤で戻った3月の最初に再会してしまったのです・・・
近所の中古車センターで古い車ばかりを扱ってる店で、86レビンの隣に申し訳なさそうに佇んでるんです。
国道から見つけた私は妻と一緒に中古車センターに飛び込みました。
ボディに触れてみると、知らないうちに涙が溢れてました。
私の青春はコイツと共にあったのですから(妻もですが)大学生の時にバイトして付けたアルミホイールもそのままに・・・

今、私はヤツと青春時代を遡るちょっとした旅をしてます。13年間、必死で働いてきた自分に少しだけご褒美をと言ったところでしょうか。重いステアリング、硬い足回り・・・なにもかも16年前と変わりません。
今度こそは最後を看取ってやるつもりです、2度と戻らない青春を共にしたコイツを。
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2006年03月30日

ある鞄職人の話

626 : :2006/03/29(水) 00:31:44
鞄作りの同業者として俺が体験したことを書いておきたいから
ちょっと長くなるが聞いてくれ。

2年半くらい前にヤフオクである工作機械をいくつか落札した。
結構大きさのあるもので普通なら送料も相当かかるのだが
たまたま住所が近い人がまとめて出品していたので
自分でトラックで引き取りに行くつもりでその出品者から落札したんだ。

その工作機械っていうのは皮革の裁断機やミシンなどで
家庭で使うような代物じゃなく、プロが工場で使うものだ。
新品で買うと相当な値段だが、当時鞄デザイナーとして独立して
新たに工房を構えようとしていた俺には新品など手が出るはずもなく、
中古の物でも格安で手に入ることになったのは大変ありがたかった。
格安といっても全部で20万円ほどかかったが。


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2006年03月28日

星の形のにんじん

510 名前: 投稿日: 2006/03/27(月) 13:52:48
俺の母親は、俺が2歳の時にがんで死んだそうだ。
まだ物心つく前のことだから、当時はあまり寂しいなんていう感情もあまりわかなかった。
この手の話でよくあるような、「母親がいない事を理由にいじめられる」なんて事も全然なくて、
良い友達に恵まれて、それなりに充実した少年時代だったと思う。
こんな風に片親なのに人並み以上に楽しく毎日を送れていたのは、
やはり他ならぬ父の頑張りがあったからだと今も思う。

あれは俺が小学校に入学してすぐにあった、父母同伴の遠足から帰ってきたときのこと。
父は仕事で忙しいことがわかっていたので、一緒に来られないことを憎んだりはしなかった。
一人お弁当を食べる俺を、友達のY君とそのお母さんが一緒に食べようって誘ってくれて、寂しくもなかった。
でもなんとなく、Y君のお弁当に入っていた星形のにんじんがなぜだかとっても羨ましくなって、
その日仕事から帰ったばかりの父に「僕のお弁当のにんじんも星の形がいい」ってお願いしたんだ。
当時の俺はガキなりにも母親がいないという家庭環境に気を使ったりしてて、
「何でうちにはお母さんがいないの」なんてことも父には一度だって聞いたことがなかった。
星の形のにんじんだって、ただ単純にかっこいいからって、羨ましかっただけだったんだ。
でも父にはそれが、母親がいない俺が一生懸命文句を言っているみたいに見えて、とても悲しかったらしい。
突然俺をかき抱いて「ごめんな、ごめんな」って言ってわんわん泣いたんだ。
いつも厳しくって、何かいたずらをしようものなら遠慮なくゲンコツを落としてきた父の泣き顔を見たのはそれがはじめて。
同時に何で親父が泣いてるかわかっちゃって、俺も悲しくなって台所で男二人抱き合ってわんわん泣いたっけ。

それからというもの、俺の弁当に入ってるにんじんは、ずっと星の形をしてた。
高校になってもそれは続いて、いい加減恥ずかしくなってきて「もういいよ」なんて俺が言っても、
「お前だってそれを見るたび恥ずかしい過去を思い出せるだろ」って冗談めかして笑ったっけ。

そんな父も、今年結婚をした。相手は俺が羨ましくなるくらい気立てのいい女性だ。
結婚式のスピーチの時、俺が「星の形のにんじん」の話をしたとき、親父は人前だってのに、またわんわん泣いた。
でもそんな親父よりも、再婚相手の女の人のほうがもらい泣きしてもっとわんわん泣いてたっけ。
良い相手を見つけられて、ほんとうに良かったね。
心からおめでとう。そしてありがとう、お父さん。
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2006年03月18日

家を出るか迷ったとき、祖父が言った言葉

371 : :2006/03/17(金) 20:03:29 ID:aYyXRWAO
俺は九州の田舎に住んでたんだ。
貧しい家だったけど、まぁ楽しい家庭だった。

俺が18の時東京に出ようか迷ってた。まぁ母親とかに相談してたよ。
悩みがピークに達した時じいちゃんが俺にこう言ったんだ。
今でも忘れない

【〇〇、お前はまだ若いだろ。1日にして言うとな、まだ朝起きてコーヒーとか飲んで今日、1日何するか考える時だ。俺は夜でテレビ野球見たり、1日振り返ったりして、そろそろ寝ようって時だ。満足行った1日を送れて上手いビールを飲んでな・・・。】

俺はそれで東京行きを決心した。
普通にある程度良い仕事ついてます。

じいちゃんは去年死んだ


372 :本当にあった怖い名無し :2006/03/17(金) 20:19:02 ID:r528jE4H0
じいちゃん、うまいこと言うな。
俺はさしづめ、昼飯が終わって眠たくなるころだw
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2006年03月13日

手先の器用な父の思い出

350 : :2006/03/13(月) 17:54:31 ID:pdzuQ0a0
父さんは手先が器用だった。
小学校3年生の工作、少し手伝ってって言っただけなのに、120%の渾身の精力を傾けて
作ってくれた空母赤城。何故かキットにない零戦の整備兵までいる。
物凄すぎて出せなかったよパパン…

イタズラも得意だったよな。
俺の歴史の教科書、ザビエルは天使になってるし、伊藤博文は(=゚ω゚)ノぃょぅとかやってるし。
(後でどれだけ怒られたと思ってるんだよw)
病室も折紙のカエルだらけにして看護婦さんに真剣に怒られてたっけ。

この間娘にせがまれてカエルを折ってやってたら、思い出して後で泣いてしまった。
死ぬ何日か前に車椅子に乗った父さんに会った時、こっちにおいでって言われたのに、
痩せ細った父さんが恐くて尻込みしちゃったんだよな。
あれが今生の別れだったのにな。ごめんな。本当にごめんな。

あなたみたいに愛情深く、面白い人間にはなれないかも知れないけど、
いつかは娘を萌えさせてみせるから。
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2006年03月08日

ありがとう、駅員さん

11 :優しい名無しさん :2006/03/07(火) 16:01:40 ID:GBtc5KhG
駅員さんっておかしい人に気づくのな

飛び込む覚悟ではなかったんだけど、仕事とプライベート両方で追いつめられた時、
帰宅途中に自宅とは全然違う方面に向かって
とある駅で入線してくる電車の明かりに引き寄せられるようにホームの端にフラーっと寄っていったら
近くで入線のアナウンスしてた駅員さんに腕を捕まれて中へ引き込まれた
電車が無事に入線したあと駅長室に通されてお茶をもらって
「何があったかわからないけど、悲しむ人もいるから」って言われて
その時やっと自分が自殺しようとしてたんだと自覚できて
ラッシュ終わり頃の忙しい時間、迷惑だっただろうに
お茶煎れてくれて落ち着かせてくれた駅長さんの親切に涙が溢れてきたよ

止めてもらわなかったらスピードが遅くなってる電車に突っ込んで手足もげる重症くらいで
当時の苦しい状況よりもっと悲惨な事になってたと思う
大勢に迷惑をかける事になったと思うし…

名前聞き忘れたけどあの時の駅員さん達本当にありがとう
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2006年03月06日

こんなふうに死にたい

944 名前:( ´∀`)ノ7777さん[sage] 投稿日:2006/03/05(日) 19:39:23 ID:22t89c7Y
俺、死ぬ前に小学生の頃を
一日でいいから、またやってみたい
わいわい授業受けて、体育で外で遊んで、学校終わったら夕方までまた遊ぶんだ

空き地に夕焼け、金木犀の香りの中家に帰ると、家族が「おかえり〜」と迎えてくれて
TV見ながら談笑して、お母さんが晩御飯作ってくれる(ホントありがたいよな)
お風呂に入って上がったらみんな映画に夢中になってて、子供なのにさもわかってるように見入ってみたり
でも、全部見終える前に眠くなって、お部屋に戻って布団に入る
みんなのいる部屋の光が名残惜しいけど、そのうち意識がなくなって…


そして死にたい
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2006年02月21日

弁当

63 名前:番組の途中ですが名無しです[] 投稿日:2006/02/19(日) 17:34:58.53 ID:asfemZGB0 ?
俺は高校までずっと都立で給食だったし、大学も学食やらコンビニやらで済ませて来た。
母親の手作り弁当の記憶なんて、運動会か遠足、それも遠すぎて覚えてない。
就職しても、社食が当たり前で妻も俺に弁当を作ったことはない。
俺自身も、弁当箱持って歩くのも荷物になるし弁当への思い入れも何もなかったある日
今年中学生になった娘が、「はい。オヤジさん(←娘は俺をこう呼ぶ)」とバンダナで包まれた弁当箱を手渡した。
「なんじゃ?これ?」と俺が言うと
「だって、今日オヤジさんの誕生日じゃん」と・・・・。
俺、絶句。
「何だ、お前弁当作ってくれたのかよ。食えるのか?」と、恥ずかしさのあまり悪態をついてしまった。
だが、娘は「一生懸命、早起きして作ったよ」と笑顔だった。
素っ気無い顔しときながら、気になって弁当箱の中身を会社について確認したら
ご飯には、鮭フレークでハートが描いてあった。
おかずはハンバーグと、ウインナーと、ベーコンポテト。俺の好きなチーズも入っていた。
胸が詰まった。
2450グラムと小さく生まれてきた日のこと、夜中熱を出して夜間診療所に駆け込んだこと
運動会の徒競走で転んだこと、父の胸に幼い日の娘の姿がよぎる。
あいつ、こんなに大きくなりやがって。
食べた弁当の味は、しょっぱい、勿論俺の涙の味だ。
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2006年02月19日

野球のチケット。

710 :水先案名無い人 :04/05/07 23:42 ID:tUqTzXBy
幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。学もなく、技術もなかった
母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。それでも当時住んでいた
土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに
遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。俺は生まれて初めての
プロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。母がもらったのは
招待券ではなく優待券だった。チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わ
なければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外の
ベンチで弁当を食べて帰った。電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せて
やることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように
野球、ごめんね」と言った。俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。
posted by momom at 13:31| Comment(3) | TrackBack(0) | 感動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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